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Column


第28回 医療とエビデンス
<質問>
本羅先生、こんにちは。私も、ようやく新型コロナウイルスのワクチンを打ってきました。
勤め先の隣のオフィスで感染者が出たこともあって、一気に新型コロナウイルスの怖さが身近になった気がします。友人に、私が打ったことを話すと、なんとなく打ちたくなかったけど打とうかな、と言っていました。

かと思えば、私の母は、テレビでワクチンを打った後に亡くなった人の話を見て、怖がっています。もっと極端なのは親戚のおじさんで、絶対にワクチンなんて打たない、あんな危険なものより、新型コロナウイルスに効く安全で安価な薬があるんだ、と私の話を聞いてくれません。

ワクチンは無理やり打つものではないとは思うのですが、デマに振り回されている人たちが本当に心配です。本羅先生は、どう思われますか?(神奈川県 Y. H.)
(2021年8月)
<回答>
Y. H.さん、ご質問ありがとうございます。8/5には、感染者数が5000人を上回ったというショッキングな発表がありましたね。毎日の数字を見る限り、峠は越えたかとは思いますが、予断を許さない状況は、しばらく続くかもしれません。

きわめて安全性の高いmRNAワクチン
明るいニュースとしては、高齢者の死亡者数が劇的に減ったことで、新型コロナウイルスのワクチンが効果を上げていることが伺えます。一方で、まだワクチンの行き渡らない方(20代~50代)への感染が広まり、入院される方が増えた結果、首都圏では、救急医療が必要な方に対して搬送先の見つからない、いわゆる医療崩壊が現実になってきました。

お友達がワクチン接種に前向きになってくれたことは安心ですが、お母様やご親戚は、心配ですね。NHKの報道によると、首都圏1都3県の意識調査(約3100人)では、およそ半数の人が「自分は感染しない」と思っているそうです。
特に、40代~50代の半数以上は「知り合いが感染しても、自分は感染しない」と考えていて、この世代の感染リスクに対する認識の甘さは問題ですね。

日本全体で見れば、8/10時点で、35.5%の人が2回接種を完了しているのですが、デルタ株の感染拡大の速さからして、冬が来る前に、若い世代も含めて接種完了者が今の倍くらいでないと、厳しいかもしれません。

Y. H.さんのお母様には、再度、ワクチン接種が原因で亡くなった方はいないことをお伝えください。「ワクチン接種の後に亡くなったこと」と「ワクチン接種が原因で亡くなったこと」は、全く違います。
「前」に起きたことのせいで「後」が起きたように感じてしまうのは、仕方がないことです。

しかし、医学・生理学的に説明できなければ「ワクチン接種と有害事象の因果関係は不明」としか言いようがありません。安心していただきたいのは、全ての有害事象が報告されていることです。
「因果関係が不明」でも、統計的に不自然な有害事象は必ず検出されます。実際、因果関係は不明ながら、mRNAワクチンの副反応として、心筋炎・心膜炎が認められています。
ただし、日本では100万人に1人未満と、もの凄く頻度が低いですし、ほとんどの事例で入院後に快復しています。

 

そもそも心筋炎・心膜炎は、新型コロナウイルス感染の合併症ですから、感染する方がリスクも被害も大きいことは言うまでもありません。

世界中で億の単位の人々に接種されたmRNAワクチン(コミナティ筋注、モデルナ筋注)は、開発当初の懸念を掻き消すほど、きわめて安全性の高いものです。接種後の死亡に対して不安をあおる報道や噂は、すべて無視して問題ありません。

エコーチェンバー現象
不安や不信が募る時は、自分にとって分かりやすい情報を信じがちです。特に、デマのような極端な情報に引きずられて、同じような主張をする人々だけで情報交換をするようになると、一層、間違った信念が強化されます。

これをエコーチェンバー(Echo chamber)現象と言います。エコーチェンバーとは反響音を録音するための設備で、残響室とも呼ばれます。
一つの意見が流通し、特定の人々の間で内容が重なったり歪んだりしながら拡散され、いつまでも響き続けることの比喩なのですが、実は、インターネットやSNSが普及する前からある問題で、メディアリテラシー(Media literacy)の課題でもあります。

私は心理学が専門ではないので、ご親戚の方に、どのような言葉をかけてあげるのが良いかは分かりません。
ただ、何か別の不満や不安から、そうしたデマに染まる方も多いそうなので、まずは頭から否定せずに話を聞いてあげてください。その上で、巷間に出回る「新型コロナウイルスに効く安全で安価な薬」は、根拠のないデマであることを説明してあげてください。

私が「根拠がない」というときは、「効くというエビデンスがない」か「効かないというエビデンスがある」ということです。

本コラムでも、何度か新型コロナウイルスに関するデマについてお話してきました(第12回、第15回、第25回)。私のような、理系人間で根っからの理屈屋は、こうした世間を騒がせる事態に際しては、科学論文を漁ったり公式のデータを集めたりして、正しい情報を探します。

しかし、全ての方に同じことはできないと思いますし、どんな情報が正しいのかを判断するにも訓練がいるでしょう。実際、科学者といえども、自分の専門分野以外の論文などは、スラスラと読めないものです。ましてや、いきなり理解できる一般の方は、そう多くないだろうと思います。

素人は論文を読むな、と言っているわけではありません。背景となる知識や関連する他分野の勉強、ちょっとしたコツや数をこなして読み慣れるなどしないと、論文から正しく情報を読み取ることは難しい、ということです。
最近はSNSが盛んですから、情報収集や発信が簡単になりました。論文も容易に手に入ります。それだけに、情報の「確からしさ」を判断することが重要だと思います。

医療における科学的根拠とは?
近年、医療情報の確からしさはエビデンス(evidence)で判断されています。当コラムでも頻繫に使う「エビデンス」という言葉ですが、より厳密には科学的な根拠(scientific evidence)という意味で、それに基づく医療が、EBM(evidence-based medicine:根拠に基づく医療)です。

ここでの、「科学的な根拠」とは「信頼性」のことで、一般的には、科学研究の信頼性は、客観性の担保と統計的な有意差(significant difference)で評価します。

有意差とは、実験結果が仮説を否定する確率(偶然に起きたと解釈する確率)のことで、自然科学では5%未満、より厳しくは1%未満で「有意差あり」と評価することが多いです。
大雑把に言うと、同じ実験をして同じ結果になる確率が95%以上ないし99%以上であれば「偶然ではない」、つまり「意味がある」と判定するわけです。

特に、治療法を確立するための臨床試験では、より厳密な信頼性が要求されます。そこで、EBMの信頼性を理解するために、それぞれの研究方法を階層化して整理したものが、エビデンス・ピラミッド(pyramid of evidence)です。上段ほど、「レベルの高いエビデンス/強いエビデンス」であると評されます。


エビデンスレベルを高めるための工程
研究を行うには、まず医学・生理学的な既知のメカニズムで説明ないし推論できることが大前提です。
実際、臨床研究に至るまでには、多段階の研究が必要で、まず、培養細胞や遺伝子・タンパク質などを使った実験(in vitro experiment)動物実験(in vivo experiment)で薬物の効果や生理現象を研究します。

こうした基礎研究に加え、症例報告(case report)症例集積(case series)を経て、要因(疾病の原因)や治療法などの仮説を立てます。

次に、その仮説に従って、症例対照研究(case-control study)を行います。症例対照研究は、仮説(ある要因の有無と疾病の関連)を過去のデータから評価する、比較的少数での観察研究で、これに有意差があれば、さらにコホート研究(cohort study)へと進みます。

通常のコホート研究では、数万人の規模を前向き(prospective, 未来に向かって)に一定期間追跡し、仮説を評価します。精緻かつ長期にわたる診療履歴や調査結果があれば、過去に遡って同様の研究を行うことができます。
これを後ろ向きコホート研究(historical cohort study)と言います。過去に行われたコホート研究のデータを再利用して、別の視点から後ろ向きコホート研究を行うこともあります。

コホート研究よりエビデンスレベルの高い研究が、ランダム化比較試験(randomized controlled trial, RCT)です。RCTは、症例報告からコホート研究までの観察的な研究とは異なり、より積極的な介入研究(intervention study)を行います。

介入研究は、研究者が被験者に、仮説の要因を付与ないし除去する、前向きな試験です。さらに、試験の客観性を高めるため、要因をあてがう被験者をランダムに設定し、誰に要因があてがわれたかが研究者と被験者の双方から分からないように、試験方法をデザインします。
これを二重盲験法(double blind test)と言います。二重盲験法によって、被験者側のプラセボ(placebo, 偽薬)効果と研究者側の観察者バイアス(observer bias)が排除できます。

ちなみにプラセボは仏語読みで、英語だとプラシーボと発音しますが、暗示効果で要因と同じ作用を起こすことを言います。
また、観察者バイアスは、観察者が期待する結果を望むあまりに期待しない結果を見逃すこと、または被験者が観察者の期待に沿うように反応することを言います。どちらも、仮説の評価に対する客観性を妨げます。

 

RCTで検証された仮説は、結果が肯定でも否定でも、かなり客観性の高いエビデンスと言えます。しかし、どのような研究でも、結論を明確にするために、研究対象の条件をシンプルなものに限定します。

したがって、重要な研究対象では、条件を変えたコホート研究やRCTが複数あります。そうしたエビデンスレベルの高い研究を複数まとめたものが、メタ解析(meta-analysis)システマティック・レビュー(systematic review)です。

両者は同じ意味でも用いられますが、厳密に分けると、メタ解析は、システマティック・レビューの中におけるデータの統合と解析に相当します。

メタ解析やシステマティック・レビューは、最も高いエビデンスレベルの研究と考えられていて、医療における標準治療(standard of care/standard therapy/best practice)診療ガイドライン(Medical guideline)と言った、医学的な推奨事項を決定する上での最重要データになります。

ここまで徹底的に信頼性を高めた「科学的根拠」だからこそ、それに則って、医療従事者は、責任ある「人の命を預かる仕事」ができるのだと思います。安心は理屈だけで得られるものではありませんが、理屈抜きの安心ほど危ういものはない、とも思います。どうか、正しい知識を基に、このコロナ禍を乗り切っていきましょう。