天正遣欧少年使節

最近ひょんなことから改めて「天正遣欧少年使節」の存在を知り、興味を持ったので色々と調べてみました。

なかでもNHKの「その時歴史が動いた~天正遣欧使節 ~」は、わかりやすく解説されていて、またその中に非常に興味深い内容があったのでここでとりあげてみたいと思います。

天正遣欧少年使節とは?

天正10年(1582年)2月20日、イエズス会の重鎮でもあるカトリック教会の司祭アレッサンドロ・ヴァリニャーノに連れられ、ポルトガル船に乗った12歳から14歳の4人の日本人少年たちが長崎を出港した。

以後彼らが日本に帰国するまでの8年5カ月の間に、当時圧倒的な富と武力で世界を支配していたスペイン国王フェリペ2世に謁見する。その4ヶ月後の1585年3月23日には、カトリック教会で全世界に絶対的な影響力を持つローマ教皇に謁見を許される。

その時、少年たちはローマ兵、楽隊、華やかに飾られた馬車が連なる3キロにもおよぶ行列に先導されヴァチカンに向かい、沿道には数千人の見物人たちがあふれ、方々から祝砲が打ち鳴らされた。

少年たちは王侯を招くときに使われるヴァチカン宮殿の王の間に通され、全ヨーロッパの枢機卿が参列する中、カトリック世界の最高権威、ローマ教皇グレゴリオ13世が、はるか極東から来た3人の少年を迎える。

教皇との謁見の後、少年使節に関する印刷物がヨーロッパ各地で50種類以上も発行され、はるか極東の未知の国日本は、ヨーロッパ全土に認知されていった。
(以上、NHK「その時歴史が動いた~天正遣欧使節~」より編集して抜粋)

4人の少年使節のうちの一人、伊東マンショの肖像
(出典)⇒世界初公開「天正遣欧少年使節 伊藤マンショの肖像」東京国立博物館で開催中

大歓迎された少年たち

日本で選抜された4人の日本人少年たちは、ヴァリニャーノによりキリスト教の教義はもちろんのこと、ラテン語などの語学や西洋の礼儀作法、楽器の演奏などの西洋文化を徹底的に叩き込まれます。

謁見当時、16歳から17歳くらいだった4人の少年たちは、“文明国”としての日本の文化・技術や高い知性をヨーロッパの人々に示しました。礼節と威厳を兼ねそろえた少年たちの名声はますます高まり、やがてその評判はローマの教皇庁までをも動かし、ローマ教皇との謁見にまで至ります。

現在にたとえて言うならば、誰も知らない小国の高校1年・2年の少年たちが、ホワイトハウスでアメリカ大統領に謁見し、大レセプションで歓迎される。その後オープンカーに乗って、熱狂的なパレードで迎えられ、国連総会で全世界の代表から拍手喝采をあびながら、世界へ向けてスピーチをする、みたいな感じでしょうか。

日本ではあまり知られていませんが、その時のヨーロッパの人々の熱狂ぶりは、われわれの想像をはるかに超えてすごいものだったようです。4人は、それらの大きな成果の他にも当時最新鋭だったグーテンベルク印刷機や楽器などの西洋の文化・文明を日本に持ち帰りました。

しかし、彼らがヨーロッパへ向けて日本を発った3ヶ月半後に本能寺の変があり、西洋文明との交易に大きな興味を示していた織田信長が殺されました。その後、豊臣、徳川と続く為政者たちは皆キリスト教を禁止・迫害したため、4人の少年たちがせっかく命がけで日本へ持ち帰った西洋の文化・文明はほとんどが活かされることもなく、歴史の闇に葬り去られることになります。

さて、さて、前置きが非常に長くなってしまいましたが、冒頭で述べたNHK「その時歴史が動いた~天正遣欧使節 ~」で私が非常に興味深いと感じた内容とは下記となります。

当時の欧州人を驚嘆させた日本人の能力

16世紀に世界の覇権を握っていたポルトガルとスペインは、次々と世界各国の先住民を屈服させ植民地とし莫大な利益を得ていました。

そのため当時日本に来ていたキリスト教宣教師の中には「日本人は文明を理解できない野蛮人」と決めてかかる者もいました。したがって日本人の信者にはただ祈りの言葉を暗唱させるだけでその意味すら教えようとはしませんでした。

スペイン、マドリッドの王宮内の天井。少年たちもこの同じ天井を見上げたのでしょうか(2018年10月撮影)

そんななか、イエズス会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日します。ヴァリニャーノも日本は野蛮な国との報告を受けていました。しかし自分の目で見る日本にヴァリニャーノは驚きます。清潔で整然とした街並み、礼儀を知り勤勉で優れた技術を知る人々、日本は今まで見てきた国とは違うのではないか。

そんなある日、ヴァリニャーノは、カトリックの洗礼を受けた戦国大名大友宗麟に出会います。禅などの仏教を学んでいた宗麟は、キリスト教の神学論をみごとに解釈してみせたのです。ヴァリニャーノは確信します。日本人は未開人ではない。独自の教養と文化を持っている。だからこれまでのような布教の無理強いには意味がない。

天正8年(1580年)、ヴァリニャーノはそれまでの日本人への布教方法を改めるため、長崎有馬に初等学校セミナリオを設立しました。日本で初めて西洋の学問を教えるセミナリオには、22人のキリシタン武士の子供たちが入学しました。

学校が始まるとヴァリニャーノは少年たちの能力に驚かされます。ローマ字を教えると幼い子までたちまち暗記し、使いこなしたのです。

「日本の子供の理解力はヨーロッパの子供たちより優れている。少年たちは、地球は丸いという西洋の最新知識もすぐに理解した。彼らにはわれわれの教義を理解する十分な能力がある。」(以上、NHK「その時歴史が動いた~天正遣欧使節~」より編集して抜粋)

当時から優れていた日本人のモノづくりの技術

16世紀後半、世界を支配していたスペインの国王フェリペ2世は、天正遣欧使節の4人の少年たちが着ている着物や草履の仕立てに感心したあと、日本刀をながめて「この刀を鍛える技術、そして細工の精密さは実に見事なものだ」と言い、極東の島国の文明の高さに驚いたそうです。

昨年(2018年)10月にマドリッドの王宮を訪ねた時の写真

実際、1543年にポルトガルから日本の種子島に伝わった鉄砲は、半世紀も経たぬうちに日本全国に広まり、あっという間に量産体制ができあがっていたのです。

少年たちがヨーロッパを訪ねた1500年代後半、つまり「16世紀後半の日本は、非西欧圏で唯一、鉄砲の大量生産に成功し、西欧のいかなる国にもまさる鉄砲使用国になっていた」(米国ダートマス大学教授ノエル・ペリン著「鉄砲を捨てた日本人」中公文庫より)。

また、同著によると、16世紀の日本刀によって近代ヨーロッパの剣が真二つに切られたり、15世紀の日本の名刀によって機関銃の銃身が真二つに切り裂かれたりしたという事実があるそうです。

日本人は400年以上も昔から、モノづくりにおける高い技術力と優れた理解力、勤勉さ、礼儀正しさで西洋の人々を驚かせていたのです。

二百数十年ものあいだ鎖国を続けた日本が、明治時代に入って突然にして西洋の文明を吸収し、急速に追いつき追い越せで繁栄できたのも、すでにベースとなるさまざまな能力を身に着けていたからなのでしょう。

なぜ日本人にはそのような能力や性質がもともとそなわっていたのでしょうか?その理由を探るには最近世界の古代研究者たちを驚愕させている日本の縄文時代まで遡る必要がある気がしますが、その話はまた後日ということにしておきます。